想像による創造の記録

本を読んで想像する。想像を重ねて創造する。文から思考へ、思考から文へ。その出力の記録。

感想 夏目漱石『こころ』

私は自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。

夏目漱石『こころ』(岩波文庫、1927年)

 

「先生」から「私」へと過去が捧げられる場面。「先生」がどのような姿勢で過去を捧げたのかが分かる一文です。上・中・下に分かれた本書の中で、「下 先生と遺書」の冒頭にこの文が登場します。そして、この文を幕開けとして「先生」の過去が語られていきます。

この文を初めて読んだとき、「私」と読者である自分が一体化して、本当に「先生」の血潮を浴びているかのように感じました。鮮烈で生々しい臨場感から思わず「ああ、先生」と感嘆の声が漏れていました。この文が登場するまでは「先生」と出会ってからの「私」の過ごした日々が語られているのですが、そこには、このような鮮烈で生々しい表現はないのです。この転調によって「先生」の命が、勢いを増して、眼前に噴き出したように思えました。これほどの強烈な印象を小説で体験したことはありませんでした。

この体験をきっかけに「先生」への敬愛が一段と強まりました。それに伴って「先生」の思想に対する理解をもっと深めたいと思いました。なぜ「先生」は「私」に過去を捧げたのか、なぜ「先生」は死を決意したのか。

 

なぜ「先生」は「私」に過去を捧げたのか

「先生」が「私」に過去を捧げるきっかけとなったのは、「私」の「真面目なんです。ただ真面目に人生から教訓を得たいのです」という言葉でした。この言葉に対して先生は「無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せた」と語っており、「始めて貴方を尊敬した」とも語っています。

或生きたものを捕まえる——この時「先生」は、「私」が捕食者のように、また自分がその獲物のように思えたのではないでしょうか。この瞬間、「先生」は自分が生ける屍ではなく、生きた人間であると実感したのではないでしょうか。「私」が見せた無垢な心は、「先生」の動物としての生存本能を刺激して、「先生」の中で滞っていた血を強く脈打ったのではないでしょうか。

「私」の教訓を得たいという言葉に対して「先生」は、「その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった」と語っています。このことからも、「先生」は「私」によって生を実感させられたことが分かります。

この生の実感は、「先生」にとって弱肉強食の自然の摂理のようにも感じられたのではないかと思うのです。獲物の血肉が捕食者の糧となり、その捕食者の血肉がまた別の生命の糧となる—―この生命の連鎖を「先生」は感じ取ったのではないでしょうか。であれば、自分を殺して生きるという「先生」の生き様は、生命の連鎖から外れることになってしまいます。「先生」は友人Kの珠数を勘定する所作に対して、「円い輪になっているものを一粒ずつ数えて行けば、何処まで数えて行っても終局はありません。Kはどんな心持がして、爪繰る手を留めたでしょう」と語っています。このことは、生命の連鎖とそれから外れた生き方に対して、「先生」が思案する様子にも見えます。

生命の連鎖の一部になるいうことは、「先生」から「私」へ過去を捧げることになります。しかし、「先生」は自身の人生観と覚悟に鑑みて、この行為をどのように実現するべきか思い悩みます。そう留保しているときに、乃木大将の殉死が報知されるのです。

 

 なぜ「先生」は死を決意したのか

乃木大将は明治天皇の後を追って殉死しました。「先生」は「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように……」と語っていますが、「先生」はこの殉死に生命の連鎖を見たのではないかと思うのです。

明治の時代が終わり新たな時代が始まる——この大きな生命の連鎖の中には、ひとつひとつ小さな生命の連鎖が存在するのです。この関係は地球とその中にある生態系と同じように思えます。地球の環境が変化するということは、地球上の生態系が変化するということです。時代が変わるということは、人々が変わるということです。そしてこの変化は一様ではなく、ひとりひとり異なったものだと思うのです。乃木大将にとってそれは殉死することであり、「先生」にとってそれは「私」に過去を捧げて自死することだったのではないでしょうか。

乃木大将の殉死は「先生」にとっての道となり、それを通って「先生」の過去が「私」に届けられた——これもまた生命の連鎖だと思うのです。

 

生命の連鎖とは

真面目な姿勢によって「私」は「先生」の過去を知るに至りました。この過去は「先生」だけの所有物であり、言うなれば生ける知識です。この生ける知識を「私」は「先生」から啜ったのです。そして「私」の胸に新しい命が宿ったのだと思っています。これはまさしく、生命の連鎖ではないでしょうか。

人間は食物連鎖の頂点に立っているとよく言われます。ゆえに生命の連鎖からは外れているようにも思えます。しかし人間という枠組みの中では、生命の連鎖が存在します。

生ける知識を得ることで人間の生命が育まれ、その生命から生まれた知識が他の生命に与えられるという生命の連鎖——「先生」が乃木大将から道を見たように、「私」が「先生」から過去を得たように、自分自身に対して真面目でありつづけること、これこそが生命の連鎖に必要なのだと思います。この生命の連鎖に身を置くことで、人間は成長していくことができるのではないでしょうか。